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10 Sidestepping Grammar; J.Wong in ”Applying Conversation Analysis”
1.目的 母語話者が非母語話者の文法的誤りに対して、形式や正確さよりも意味を重視し、ちょっとその誤りをよけるような感じでやり取りしたり、あるいは誤用自体を無視したりする現象を明らかにする。分析の焦点は、(1)非母語話者が母語話者とおなじようなやり方で使用言語のリソースを用いるのかどうか、(2)母語話者は、自分が母語話者と話すときのようなやり方で言語的リソースを用いるのかどうか、である。 2.データ 単一事例のデータの中の4つの断片(3つは母語話者と非母語話者の自然な日常会話、1つは非母語話者の教室談話)の分析を通して、どのように母語話者と非母語話者が他者修復と訂正を展開し、それに志向するのか、そのやり方は、非母語話者の言語的能力に関連があるのかどうかを探る。 3.結果 ・3つの日常会話では、母語話者は非母語話者の発話に文法的誤りがあったとき、それを避けて通ろうとする、あるいは関心をはらわないといった振る舞いをする。それによって、あたかもやり取りにおける言語的「非対称性」はないように見えていた。それに対し、教室談話では、教師と学習者は、異なるやり方でやり取りに対して協働的に志向し構築しようとしていた。そこでは、両者が自分のアイデンティティを、教室での相互行為における言語の専門家と素人、母語話者と非母語話者として構築していた。 More Different Orientations to Grammatical Correctness; S.Kurhila
in ”Applying Conversation Analysis” フィンランド語の母語話者と非母語話者の相互行為における文法の正確さへの志向性の違いに焦点を当てて、自由会話と、教務課の担当と学習者のコース決定をめぐるやり取り(制度的場面)を分析している。データでは、非母語話者のほうが母語話者よりもずっと文法的正しさに焦点を当てた発話を産出しており、母語話者は時にその志向性に同調することを拒む現象も見られた。この違いは、文法的正確さへの「こだわり」の違いが表れたものと思われる。 その結果から、非母語話者が文法的細部にこだわることで、自由会話では注意深く、積極的な話し手としての自分をアピールし、制度的場面では、フィンランド語学習者として、文法に敏感な「よい学習者」である自分をアピールしている可能性を指摘している。一方、母語話者は、非母語話者の言語的トラブルに最小限の対応をすることで、言語的非対称性を最小限にする、あるいは、教育的コンテクストを持ち込まないようにしているのではないかと考察している。 このような志向性の違いから派生する問題の可能性として、非母語話者は自分の文法的正確さにまつわる努力を無視する母語話者を非協力的だ感じ、母語話者は非母語話者を不要なこだわりで会話進行を妨げる相互行為の未熟者と感じることを指摘し、言語教育ではどのように文法をおしえるべきかという問題に、このような詳細な実態の報告を役立てるべきだと結論付けている。 感想:ざっと読んで、SLAで意味交渉といっているトラブル解消プロセスを母語話者性、非母語話者性というアイデンティティから分析していておもしろかった。もう少し、現場への示唆を具体的に知りたいなあと思った。 まず、取り上げたのは、ずっと前に買って、早く読まねば、と思ってたコレ↓
”Applying Conversation Analysis” Richards, Keith (EDT) Seedhouse, Paul (EDT) Palgrave Macmillan (2005/07 出版) この本の3章と4章が接触場面と言語学習について述べています。 PART 3: NATIVE SPEAKER AND NON-NATIVE SPEAKER INTERACTION 9 Different Orientations to Grammatical Correctness; S.Kurhila 10 Sidestepping Grammar; J.Wong 11 Discrimination Due to Nonnative Speech Production? M.Egbert PART 4: LANGUAGE LEARNING 12 The Organization of Off-task Talk in Second Language Classrooms; N.Markee 13 Vowel-marking as an Interactional Resource in Japanese Novice ESL Conversation; D.Carroll 14 Teaching Patterns of Interaction in English for Specific Purposes; A.Packett 15 Conversation Analysis as Research Methodology; P.Seedhouse 明日は、9の論文からまとめていきます。今日はもう眠いので…(早くもヘタレ?)
最近、ほんとに論文読んでない。
さぼり放題だ。まずい。 それに、このブログも、いまいち視点というか テーマが定まってなくて、どのように書きつづけたら いいか、ともすればわからなくなる。 これはいかん、と思い、一念発起。 細々と続けている エスノメソドロジーの会話分析の 自習の場として、このブログを使うことにした。 英語の会話分析には、第二言語習得に焦点をあてたものや 教室談話のデータを扱ったものが結構ある。これを要約して ここに載せようと思う。目標は、一週間に2,3本。冬休みに 続けて、習慣になればいいなあ。 糸井重里のほぼ日の大ファンです。
今、「観たぞ!北京オリンピック」という オリンピックを見ながら、みんながコメントを送るコーナーがあって、 秀逸です。 http://www.1101.com/beijing2008/index.html 思わず噴き出したコメントは・・・ スポーツに興味ない母。 オリンピックにも興味なし。 そんな母のコメント。 男子100mで世界新記録を出したボルトを見て、 「この人、体は大きいのに耳が小さい。 お金は貯まらんね」 (kei) あそこが痛い、ここが痛いと ため息ばっかりついてる父が、 「現在室伏第4位!」とのテレビ解説に、 「4位じゃ困るんだよ」と一言。そしたら母が、 「困るんだよ、って あんたは何もしてないでしょ」と一言。 (にこにこ) 昨日、千春選手の試合中にうっかり 「イチョウダケニギンナンデス」を 口に出してしまい、負けさせてしまった私。 今日の馨選手の試合中は 「銀杏なのに金なんです」を お題目のように唱えることに。 結果、金!! やった!! 連破!! おめでとー!! (スットコ) みんなすごいわ~質が高い。 夏休みもあっという間に後半。ここでいったん頭の整理。DID・LIST と TO DO LISTです。
夏休みに入ってやったこと ・部屋の掃除(大量のごみ廃棄。こうしてみると、なければないで生きていけるモノの なんと多いことか) ・8月11,12日の日本語教育学会のワークショップの準備・実行・そのあとの資料の整理もろもろ。おかげ様で盛況でした。 ・1年半以上放置していたホームページの更新。ここのところ、よく「読みましたよ~」という 言ってくださる方にお会いするので、これはちゃんとやらないと。。。と反省しました。 なんとかアップロードのし方を思い出し、リニューアル。 ・お茶大の研究員応募の書類作成。 ・ガスレンジの修理(なぜか火がつかなくなっていた) ・論文の査読1つ。 これからやること ・とにかく、本を読む ・放置しているいくつかの論文をまとめる ・文章表現の授業の提出物の整理 ・後期の授業準備 ・論文の整理 ・読んだ文献の要旨をまとめてHPにアップする ・父の四十九日の法要とお香典返しの手配 圧倒的にTODOの方が頭使うことじゃないか。先延ばしが徹底している。 しっかりしろ>自分 外国語としてある言語を学ぶとき、その言葉のネイティブと
話すことがどういう意味を持っているのか、というのが博論のテーマでした。 いろいろ調べたけど、やっぱり、日本語教育の場合 会話教育っていうと、ストラテジー的なとこに落ち着いている感じ。 いわゆる、技術というのかしら。例えば、話を切り出すときは、こうする、 話題を変えるときはこうする、っていうふうに。 確かに、そういう風に細分化して一つずつ練習してみて、 それを日本人と話すときに使ってみる、という方法は、 スポーツでも何でも、何かできるようになるためのオーソドックスなやり方だ。 そして日本語教師は、安心して日本人を相手に練習できる場を設定する。 でも、どうしても、この会話することを「ストラテジー」としてあつかい、練習させる ことに違和感がある。 教室でテクニックだけ練習して、本当に自分に必要なやり取りと人間関係構築は、教室の外で自分で何とかしろっていっているみたいで。 なんか、道具だけ、一生懸命教室で磨いて、実際にそれを使って必要なことをする方法は、自分で試行錯誤しろっていっているみたい。 今のやり方だと、その一番難しいところを、学生側に丸投げしている気がする。 これって、手工芸のワークショップによくある とっても簡単なサンプルを作ってみよう!というのと似ている。 ほんとは、だれでも自分が作りたいもの(話したいもの)があるはずなんだ。 でも、とりあえず教室では、何らかのレベルがあらかじめ設定されていて、 みんなそれをやって「できた」という感じを味わうんだけど、実際に自分が作りたい(言いたい) ことにそのサンプルが役に立つかどうかなんて、わからない。役に立つかどうかは、学生次第。 ほんとは、教室で、その道具を使って作りたいものを作るべく、 試行錯誤をして、だめだったら会話相手、教室の仲間、 教師とその試行錯誤について話し合って、どうやったら、その道具でもって、 いい作品(=会話)ができるようになるかというのを検討すべきじゃないかな。 そして、たぶんそこに結論なんか出ないし、誰にも当てはまる解決策なんて ないんだろうけど、そこで自分が「会話への関わり方を検討する」という行為自体に 意味があるような気がする。 ・・・みたいなことを博論で書いたつもりなんだけど、頭がぐちゃぐちゃです。
1時にほかの大学に行く用があったので、
午前の授業が終わってばたばた用意してたら、 作文クラスの学生が。。。 「ちょっと書類を見てほしい」とのこと。 いつ?と聞いたら「今」だって。 急ぐんだって。 そうか、しゃあないって 思ってみてみたら、A4に3枚ぐらい。 _| ̄|○ 超特急でチェックしたんだけど、 後で反省反省。 今それをやると決めたのなら、 ちゃんと学生に向き合わなくっちゃ。 それができないなら、次の機会にすべきだわ。 ごめんね。S君。 今日は、ひさびさに朝からゆっくりできていい気分。 3か月ぶりに美容院にも行って、くるくるパーマかけたわ。 なんか、J.S.Bachみたいだけど、これもご愛敬。
新学期が始まって(勤務先では、他の大学とちがって、1-3月が春学期)
新しい学生さんとの打ち合わせしました。 今期だけ受け持つ読解(超級)クラス。 普段、どんなもの読むの? と聞いたら、これがほとんど活字を読まないとのこと。 「え、自分の国の言葉でも?」ときいたら、そうだという。 これって、他のところで教えている日本人学生の場合も大体同じ状況。う~む。 別に、今に始まったことじゃないんだけど。 以前から担当している文章作成のクラスで、どうして、私がいくら 「読み手の立場に立って書くように」といっても、よく伝わらないのかが わかる。 文章を書いてもらうと、受験で小論文をさせられて いたので、自分の意見は、それなりのことが書ける。 ただ、自分の意見に、引用で根拠を示すとか、予測できる反論を入れながら 論を進めていくとかっていうことを、どうしてしなければならないのかが わからない。 それは、一つには、人の書いたものをよまないからですね。 読むっていうのは、ただ情報をそこから取るだけじゃなくて、 書いた人と対話すること。 その経験を積んでいないと、なかなかよい書き手にはなれない。 道は長いなあ。
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